狭義的平和の持つ素晴らしき午後の能動的主観
去年同時期のブログ→【戦火を炭火に変えた22265日後の僕らの世界】
あれから365日間を経て、世界は少しでも姿を変える事ができただろうか?
僕らは少しでも理想とする社会や個人的精神世界に近づく事ができただろうか?
解らない。
ただ解るのは、その巨大なエネルギーの集合体に溺れそうな居心地の良さが、いつだって変わらずに僕を取り巻いてしまう圧倒的な事実だ。
さて、何を以って【平和】と呼ぶか?
それは、あまりにも多義的であり、その意味内容自体、あらゆる文化形態によって大きく異なってしまう。
つまり【平和】とは、超個人的主観の中に於いてこそ、それを【平和】と成す唯一絶対的な手段なのだ。
8月14日(火)快晴。 【ジャグブランキン 終戦記念BBQ】
その昔
「われわれが戦争に対して憤りを感じることの主たる理由は、私が思うに、われわれがそうでしかありえないからである。われわれは平和主義者であるが、それはわれわれが器質的理由から、平和主義者たらざるをえないからである」と、フロイトは言った。
質的理由。
それが、僕らにとって、【太陽】と【仲間】と【ご馳走】と【アルコール】であり続ける間は、
何処をどう覗いても【平和】な僕らしか映らないはずだ。